少年野球の夢を追いかけて

京葉少年野球連盟30年の歩み

  ■はじめに

昭和50年千葉市の海水浴場として親しまれていた稲毛海岸の埋め立てが終わり団地の建設ラッシュで千葉市人口急増の時代でした。その団地の真中に千葉市所有の学校用地が葦が生い繁った沼地のまま残されていました。前理事長故加藤正三氏が、これを少年野球のグランドにしようと自費で土を入れ整地を行い、四面の少年野球場を作り上げました。この高浜四面球場をホームグランドとして、昭和50年秋、千葉市の3チームと東京江戸川区の1チームにより親善試合が行われました。これを機に翌昭和51年春、東京の「京」と千葉の「葉」をとり6チームによって京葉少年野球連盟が誕生しました。
「明日を担う青少年の健全な育成と少年野球の原点を見据える」の理念のもとに現在55クラブが加盟し千葉県有数な少年野球連盟に成長しました。平成18年、創立30周年を迎えるにあたり、この「30年のあゆみ」を振り返ってみました。

連盟の誕生 リーダーがいてグランドがあった  

昭和51年の頃は、1 チームに子供たちが30人前後はいた時代でした。そのうち試合に出られる子供が9人強とすれば、10数人は余るといった状態。その子供たちを救おうと、加藤正三氏が親善試合をスタートさせたのが京葉連盟誕生のきっかけです。今でこそ20近い大会があるものの、当時は千葉市の大会は1回しかありませんでした。背景には千葉市連、海浜、中央、西部、南部、千城といった6つの連盟と、13県をシェアとする関東団地少年野球連盟のメジャーな存在がありました。そんな中、加藤氏宅には同志が集い、語らっていくうちに「地域の子供たちと野球ができる環境をつくろうじゃないか」という発想が生まれ、次第に京葉連盟は立ち上がっていきました。さらに発想を実現に導いたのは、高浜四面グランドの完成です。今はマンション群が林立する高浜公民館前の一画に、京葉連盟の大会運営を拡大していった高浜四面グランドはありました。冒頭にもあるように、加藤氏の熱意による市との交渉と自費投入によるグランドづくりが実を結び、大会運営が可能になったことで、リーダー加藤氏と共に京葉連盟発展の大きな礎となったのです。「また、高洲コミュニティの前にも四面グランド(現在はマンション)が10年間存在し、昭和59年には幕西グランドが完成しています」(原通夫氏)。高浜四面グランドは平成7年、千葉市への返還を余儀なくされ代替地として、長谷川、菅澤、清水氏らの市との交渉により現在事務局を置いている卸売市場球場へと移っていきました。卸売市場球場を基点に高洲コンドルス、幕西ファイヤーズ等のグランド提供のご協力を得て、現在に至っています。「グランドあっての少年野球」―ことグランドに関してはどの連盟にしても悩みのタネ。民間の力だけでなく、行政への働きかけには議員諸氏の貢献に負うことも実状です。

教育リーグと卒部記念大会

  陽のあたらない子らに陽をあててあげよう

「子供たちのために他連盟がやらないことをやる」をモットーとする京葉連盟の実践その@に『教育リーグ』があります。連盟が発足して2~3年たった頃「3年生は練習ばかりで試合がなくかわいそうだということで、シーズンが終わった時期に友好チームで3年生リーグを開催したのが始まり。高浜四面グランドで総あたり戦でした」(内野聖三氏)。このことが評価され昭和57年に『教育リーグ』として確立され、その後、他連盟にも波及するようになりました。3年生のリーグでは京葉の『教育リーグ』は草分け的存在です。同年より、これまで6年生と5年生だけだった秋の大会に3年生チームを入れ、教育リーグで勝ち上がったベスト8で決勝トーナメントを行うようになりました。「ただし、京葉連盟ではこと3年生に関しては、勝ち上がりよりも試合をたくさん楽しんでもらおうという精神には変わりありません」と原氏は勝ち上がりにこだわる向きに物言いを呈します。新人戦にしても同様。最初の頃、5年生チームは春と秋の大会はあっても夏の大会は6年生チームだけでした。春の大会が終わると何もなく大会数の少なかった5年生チームに京葉としてこのことを補完する意味で、新人戦として夏の大会を開催するに至りました。いずれにせよ“陽のあたらない子供たちに、陽をあててあげよう”という加藤氏の趣旨にかなってのことでした。“子供たちのために他連盟がやらないことをやる”をモットーとする京葉連盟の実践そのAは『卒部記念大会』。教育リーグの少し後、これも昭和57年が出発点でした。「当時、6年生を12月に卒部させるチームと翌年の3月までひきずるチームがありました。幸町カージナルスと高浜ジュニアーズは3月に卒部ということもあって、卒部前に一度親善試合をしようということになって実践したのが発端となり、現在の『卒部記念大会』に発展しました」(内野氏)。これも『教育リーグ』と同じ視点です。

メジャーへの第一歩〜くりくり選手権大会出場へ

 

毎年8月、所沢の西武ドームで開催されるくりくり少年野球連合会・毎日新聞社共催『くりくり選手権大会』に京葉連盟は昭和57年の第4回大会から出場。昨年、愛生グレートのベスト8入りで第27回に至りました。第3回大会において主催側で千葉市某チームの単独出場が果たして選抜であったか否かの問題が持ち上がり、毎日新聞よりその反省から京葉連盟へ出場への申し入れがあったという経緯があります。京葉連盟では、春季大会において同時にくりくり選手権選抜大会という名目がたち、各加盟クラブにとってはさらなる目標を目指せるといった広がりを得ることができました。毎日新聞社といったバックボーンによる京葉連盟のブランド構築への第一歩です。時期は『教育リーグ』『卒部記念大会』と同じ昭和57年。他連盟がやっていない野球少年のための補完システムを地道にやっていくと同時に、京葉に入ることがステータスになるような連盟にしたいという広い視野に立っていたのは確かなようです。「京葉連盟が誕生したのは加藤さんの発想がメジャーとして出発したのではない。“地域の子供たちのために”といったローカルなものからだったが、当時組織的にしっかりしていた関東団地少年野球連盟を理想にし、目標にしていたのは確か」とは今村氏。毎日新聞と関わってからのエピソードに『祝賀飛行』があります。連盟主催の開会式を派手にやろうと、高浜四面グランドにて毎日新聞社のヘリコプターによる始球式を決行。3回程継続しました。最近では、マリンスタジアムでの開会式でこの始球式が復活しました。また、加藤氏の発案で、高浜小学校のブラスバンドや近所の子供たちの和太鼓を呼んだり、開会式にいち早く地域と密着した子供たちのための企画を取り入れていました。この視点は現在も、華のある開会式や磯辺高校の吹奏楽部やこてはし台の一輪車クラブ・ユニサイクルフレンドなどの参加によって生きています。

くりくり大会の光と影〜日報杯とのからみ

 

りくり選手権大会の現役員黒澤章氏は当大会を振り返って「1勝3敗の思い出かな」と語ります。「札幌のチームが初めて出場してきた頃、某チームは強いチームでトリックプレーで話題になり、兄弟バッテリーもいて楽しみにしていました。ところが平成5年の第15回大会の時に、くりくり大会ではなく日報杯の方へ行ってしまったんですね」。さらに、「平成8年の第18回大会では某チームが優勝しました。前年の平成7年に京葉連盟に入ってきたチームですが、連盟の大会で5年と6年の春・夏・秋と続けて6連覇したのはこのチームが初めてではないかと思います。それはそれでいい思い出なのですが、くりくり大会優勝の次の年、優勝旗を返還する開会式に遅れてしまったんです」。同じく歴代役員の菅澤・今村氏は「その年に第19回大会で某チームが1勝しました。“明日は日報杯があるが、日報杯で負けて昼から西武ドームに戻ってくる”と言って帰りましたが、翌日、試合の始まる4時頃でしたか、チームの代表が現れて“日報杯で勝ったので西武には来れません。棄権します”」と当時の苦労話を続けます。前日の遅刻と翌日の棄権で京葉連盟は除名の危機に立たされました。役員諸氏の懸命な努力で事なきを得たものの、4年後の別の某チームで同じケースに立たされてしまいます。「日報杯とのからみ、これは縁はきれませんね」と黒澤氏、「今年のくりくり大会は814,15,16,17日とやはりまともにぶつかります。現実問題として春季優勝チームに“くりくり大会と日報杯のどちらを選ぶか”と言うしかないでしょう」。

「公式HP」 

事務局の仕事のなかで試合日程の連絡などの業務改善が重要課題でした。毎週4時に締め切り後、コピー・郵送すると一時間ほどかかってしまいます。特に秋季大会の場合、市場事務所に電源がないため、トイレの薄明かりの元で発送業務をおこなったこともありました。ファックスによる一斉連絡も実施しましたが、一長一短でした。平成13年、世の中でもホームページが身近なものとなってきました。当時、当連盟の顧問であった館山氏(元アサヒフレンド千葉)が中心となって少年野球の総合サイトを(ちばナビ)に作ろうとの話が進んでおり、非常に期待していました。ところが、最終的に話がまとまらず、挫折してしまいました。しかたなく自前で作ろうとなりました。1229日市販のソフトを買い、試行錯誤のうえ出来上がったのは平成1414日だったと思います。全国の少年野球連盟に先駆けてのHPの完成により、情報の速報性・情報公開に威力を発揮し、皆様と連盟を一体化する重要なファクターとなりました。平成1812日現在、14万人近くの皆様のアクセスをいただき、連盟運営にはかかせないものとなっています。

「石毛賞」 

 

平成1611月、元オリックス監督石毛宏典様にご講演をお願いしました。それを機会に『石毛杯』をご寄付いただきましたので、各大会Aゾーン優勝監督に最優秀監督賞として表彰しています。これまでは、子供達への表彰はあっても指導者に対してははじめてのこと。普段留守を守ってくれているご家族の方々もきっと喜んで下さるでしょう。

年度

大会名

指導監督

受賞チーム

平成17年

第29回春季大会

尾 亭

愛生グレート

平成17年

第29回秋季大会

濃 弘基

大森フライヤーズ

「グッドマナー賞」

 ある区連の閉会式で、優勝カップをブラリとさげて行進する光景を目にしました。その子は悪気があってそうしているのではなく、指導者が教えていないと痛感しました。当時、子供たちには各クラブとも礼儀についてはうるさくご指導しておられました。連盟内で協議の結果、「部員・指導者・父兄を含めて、すばらしいマナーを実践してくれたチームを目に見える形で表彰しよう」となりグッドマナー賞が第28回春季大会より制定されました。現在までマナーのみならず、すばらしい入場行進・率先してグランド整備をしてくれたチームなどを表彰しています。 

年度

大会名

指導監督

受賞チーム

平成16年

第28回春季大会

尾 亭

愛生グレートBチーム

平成16年

第28回秋季大会

能 勝

仁戸名ファミリーズAチーム

平成16年

第23回卒部大会

波 慶

磯辺トータスAチーム

平成17年

第29回春季大会

合 信

高洲コンドルスAチーム

  少年野球の夢を追いかけさらなる発展を目指して

子供が多かった時代。戦いが終わって大会がなければ大会をつくろう、3,4年生は大会がないから『教育リーグ』をつくろう−他連盟がやっていないことを地道にやっていこうとした昭和57年は、京葉連盟が大きく羽ばたく出発点でした。今や、子供が足りない時代。地道ながらも京葉連盟は、かつてから千葉市を中心として広域な加盟チームで構成されてきました。これからも“京葉”に入ることがステータスとなるような連盟であるよう野球少年がとことん楽しめる場を提供し続けます

【30周年記念誌より抜粋